―多才な運動を実現する脳の機構の解明へ―
北澤茂
(通商産業省 工業技術院 電子技術総合研究所)
腕や手の運動は何種類あるだろうか?朝起きて顔を洗い、歯をみがき、新聞を取って広げる。片手でページをめくりながら卓上のコーヒーカップに手を伸ばし取っ手をつかみ口元に運んで飲む。和食なら箸を、洋食ならフォーク、ナイフ、スプーンを使って朝食をとり、服を着替え車を運転して仕事場へ。このありふれた風景の中ですら、腕や手は洗い、磨き、取り、広げ、掴み、運び、使い、着、運転するのに活躍した。動詞1個が1種類の運動としてもすでに多才だが、対象のバラエティーを掛け算すればあっという間に運動の種類は増える。「使う」を例にとれば、この世にあるすべての道具の数だけ、さらに言えばこれから発明される道具の数だけ違う種類の運動があると言ってもよいだろう。
昨年の12月に正式発足した我々HFSP研究チームはこのほとんど無限のレパートリーを持つともいえる腕や手の運動の学習と制御の仕組みを理論的に解明するとともに、生理学的な実体をも解明しようと意気込んでいる。Principal InvestigatorのWolpert博士(英国)と川人博士が提唱されている「多重内部モデル理論」が我々の道標である[1]。両博士とFlanagan博士(カナダ)が心理物理実験によって内部モデルがどのように学習され、表現され、使われているか、を調べる。英国のLemon博士、カナダのKalaska博士と私は電気生理学的に脳の中での実体を解明する。Lemon、
Kalaska両博士は大脳、私は小脳を分担している。
内部モデルとは?
「内部モデル」は我々チームの研究のキー概念である。私なりの理解で言うと、内部モデルとは「脳の外の制御対象の性質を脳の内部に写し取ったモデル」で、脳の中に作り上げた制御対象のシミュレーターのようなものである(図1上)。よくできたシミュレーターは現物の代わりになる。例えば飛行機のパイロットは初めはシミュレーターで着陸の訓練をすると聞く。腕や手の運動制御の場合にも、あればとても役に立つ。例えば、実際には腕を動かすことなく、こんな指令を送ると手や腕はこんな動きをするだろう、と予測することができる。また、実際に腕を動かす場合でも、動いた腕から結果が戻ってくる前に運動の結果を予測することができるので、予測される誤差を修正するなど次の手をうつことが可能となる。このような原因(運動の指令)から結果(運動)を予測するのに使われる内部モデルを「順モデル」呼ぶ。順があるなら逆もある。こちらは逆に、結果から原因を作るモデルで、望みの運動の結果を入力すると、その運動を実現するような運動指令を計算するような内部モデルである。この逆モデルがあれば、あそこへ手を伸ばしたい、と思っただけで数多くの筋肉に対する適切な指令がたちどころに生成されて、手は思い通りの軌跡を描いて目標に到達する、というわけである。
内部モデルがあれば腕の制御がうまくいくことは確かである。では内部モデル一個で多才な制御は可能だろうか?これはきっと駄目である。腕の内部モデルはその人の腕の長さ、重さその他諸々のパラメータに合うように調整されているはずだから(さもなければ、コーヒーカップに手が届かない)、コーヒーカップを持った途端にそのままでは済まなくなる(そのままだと服がコーヒーを飲むことになるだろう)。でもたかがコーヒーカップくらいなら、同じ内部モデルを使っても大した誤差は出ないのですぐ修正できる、という気もする。では卓球のラケットを持ったらどうか?テニスラケットならどうだろう?野球のバットなら?ゴルフのクラブなら?こうなってくると腕の内部モデルを多少手直しする位では対応しきれないことは日常の感覚からも明らかだろう。新しい内部モデルを練習を繰り返して獲得する必要が生じる。つまり、多才な制御を可能とするためには複数の内部モデルが脳の中に獲得される必要があるはずだ(図1下)。では、運動1種類につき1個の内部モデルが必要なのか?そうだとすれば、どれくらい違う運動を「1種類」とみなすのか?これまでに獲得した内部モデルを壊すことなくどうやって「新しい」内部モデルを獲得するのか?たくさんある内部モデルの中からとうやって「正しい」内部モデルを選び出すのか?有限の内部モデルで無限のバリエーションを作り出すにはどうすればよいのか?我々チームの研究を通じて答えるべき問も、運動の種類同様に限りがない。
さてこのような内部モデルは脳のどこに獲得されるのだろうか?反射性の眼球運動(追従眼球運動)に関しては小脳の腹側旁片葉に逆モデルが存在することを強く示唆する電気生理学的なデータが得られている[2]。腕や手の随意運動に関係する内部モデルの所在は実はまだ未知であるが、追従眼球運動の場合と同様に小脳が極めて有力な候補である。なぜなら、小脳が破壊されると腕や手の運動の正確さ滑らかさが失われ、ある種の腕の運動の学習が困難となり、また小脳には内部モデルの獲得すなわち学習に適したシナプス可塑性と構造が備わっているからである。
小脳で内部モデルの学習はできるのか?
小脳における学習の仕組みについては、1970年前後にMarr,
Albus, 伊藤らによって基本的な仮説が立てられた。彼らは小脳の主要な細胞であるプルキンエ細胞に2種類の入力が入ることに注目した。一つは苔状線維からの入力で、これは顆粒細胞と平行線維を経て、プルキンエ細胞に収束する。1個のプルキンエ細胞には1000のオーダーの数の顆粒細胞からの入力が収束する。もう一方は脳幹の下オリーブ核に起始する登上線維からの入力である。きわめて対照的なことには、1個のプルキンエ細胞はただ一つの登上線維からのみ入力を受ける。小脳の学習仮説では、この登上線維からの入力が教師役を果たし、平行線維とプルキンエ細胞の間のシナプスを可塑的に変化させる、と仮定されてきた。可塑性の仮定は80年代に入り伊藤らによって証明された。すなわち、登上線維の刺激と平行線維の刺激を組み合わせると平行線維とプルキンエ細胞の間のシナプス効率が長期わたって抑圧される(長期抑圧)ことが証明された[2]。しかし、登上線維信号が学習用の信号たりうるかどうか(図2左)は、特に腕の運動に関してはごく最近まで議論が続いてきた。これは内部モデルが小脳に獲得され得るかどうか、を解明する上でも避けて通れない問題である。議論が長く続いて来たのには理由がある。登上線維の信号は極めてまれにしか生じないのだ。腕の運動中には平均して1Hz未満でしかなく、学習を進めるべき運動中にはほとんど発火しないという報告すらある。
そこで私たちは腕の運動として目標に手を伸ばす、という単純な課題を設定して課題運動中、運動後のサルの登上線維信号が運動の誤差をに応じて発生しているのかどうかを調べることにした[3]。サルには速い(300
ms以内)運動を課したので運動の最中に発生する登上線維信号は高々1個で、登上線維信号が出ない試行も多い。しかも発生頻度は目標提示前とほとんど変わらない(図2右下、緑線)。にもかかわらず、300回から2000回の試行にわたって記録したデータを使って登上線維信号が持つ誤差についての情報量を計算してみると、運動の終了直前から直後に表現されている運動の誤差の情報が浮かび上がってきた(図2右上、黒線)。一見、気紛れに出現しているようでいて、やるべきことはやっていたのである。運動の誤差はすなわち内部モデルの不完全さを表わすから、この登上線維信号は内部モデルを改善するための信号として利用できるということになる。
生理学的な実証は遅れていてまだまだこんな段階であるのだが、内部モデルに関する理論は準備万端である[1]。内部モデルの獲得に関しては川人博士のグループが構築したフィードバック誤差学習理論、複数の内部モデルの切り替えに関しては川人、Wolpert両博士が最近提案された多重順逆モデル対理論が理論的枠組みを与える。この理論は、複数の逆モデルから適切な1つを選択するために、逆モデルとペアをなす順モデルを使うという真に巧妙かつ魅力的な理論で、浅学なりにご紹介したいところであるが、残念ながら紙数が尽きた。参考文献[1]などを是非ご覧いただきたい。
多重内部モデル理論というトップからの頼もしい道案内はあるものの、目の前には未開の新大陸が広がっているようなものである。ボトムからの研究をしてきた私にはまさに心躍る未知への冒険である。これからの3年間で何を見て何に出会うのか、今から本当に楽しみだ。
参考文献
| 1. |
Wolpert DM, Miall RC & Kawato M (1998)
Internal models in the cerebellum. Trends
Cogni Sci, 2:338-347. |
| 2. |
Ito M (1984) The cerebellum and neural control.
Raven Press, New York. |
| 3. |
Shidara M, Kawano K, Gomi H & Kawato
M (1993) Inverse-dynamics encoding of eye
movement by Purkinje cells in the cerebellum.
Nature, 365:50-52. |
| 4. |
Kitazawa S, Kimura T & Yin PB (1998)
Cerebellar complex spikes encode both destinations
and errors in arm movements. Nature, 392:494-497. |
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