信号伝達系におけるタンパク分子の混雑と局在

The Molecular Sciences Institute
高橋恒一 (Koichi Takahashi)

[はじめに]
 細胞は一つ一つ独立した生き物のようにも見えるのに、想像を絶する数の細胞が集まり構成される我々人間はなぜ一つの個体として機能できるのだろうか。生物は細胞同士が情報を伝達する信号分子を交換し合って連絡を取り協調する、「信号伝達」機能を長い時間をかけて進化させてきた。細胞が外部から来た信号分子から情報を受けとり、処理、加工し、遺伝子やタンパク質などの働きを適切に制御する機構は、分子生物学の一課題として最近急速に理解が進んでいる。

 これまでは、細胞内の信号処理機構は信号が分子から分子へと引き渡され最終的に制御対象の分子へと到達する流れ図のような「反応経路」として図式化され理解されることが多かった。しかし、細胞の表面の「受容体」分子で受けとった情報が細胞の奥深くの遺伝子まで到達するには、細胞全体に比べればごく小さな分子にとって長い距離を走破する必要がある。そのうえ、細胞の中は巨大な分子がひしめくいわゆる分子混雑(molecular crowding)の状態にあることが知られている。この中を走ることは運動場での100m走というよりも、満員電車の端から端までを目隠しで移動することに近い。

 私は、細胞が内部の信号伝達特性を制御するために分子の運動、局所化、混雑などの空間的な要素をどのように利用しているのか、計算機シミュレーションと単細胞測定実験を組み合わせた複合的アプローチによって明らかにしてゆきたいと考えている。

[留学先での研究]
 私はHFSP CDF(学際的フェローシップ)を受給し、2005年10月から米国バークレー市にある分子科学研究所(The Molecular Sciences Institute, MSI)で研究を始めた。MSIは2002年のノーベル医学生理賞受賞者Sydney Brenner[1]が創設した独立系の研究所で、現在は分子生物学者のRoger Brentが所長として率いている。MSI の研究活動の中心を成すのは酵母のフェロモン応答信号伝達経路(Alpha 経路)の定量的な計算機モデル化および挙動の予測を目標とするAlphaProject である。このプロジェクトは、MSIを本拠地にMIT、カリフォルニア工科大、PNNL(Pacific Northwest National Laboratories)などで構成されるゲノム実験および計算センター(Center for Genomic Experimentation andComputation) により推進されている。MSIでは、分子生物現象の計算機モデリングを通じた予測、理解という焦点を明確に保ちながらも、実験、理論、計算の多方面から多彩な研究者が実に生産的に一つの目標に向けて組織されている。

 酵母はヒトのような真核細胞生物の中では比較的単純で実験に適しているため、最もよく研究されているモデル生物の一つである。出芽酵母には二つの性(aとα)がある。通常は出芽(分裂)により増殖するが、異性が発するフェロモンを感知すると互いの方向に伸長し接合ののち二倍体となる(図1)。Alpha 経路は細胞膜上の受容体で信号ペプチドを感知し、Gタンパク、MAPキナーゼを介して信号を増幅処理した後細胞周期の停止、細胞形態の変化、遺伝子の発現制御など必要な機能を活性化する[2](図2)。この経路は真核生物の信号伝達経路の原型とされ非常に研究が盛んで、癌研究など基礎医学的にも重要である。

 私はAlpha経路に関与しているタンパク分子の生きた細胞内での運動を知るため、蛍光相関分光法(FCS)を用いることを計画している。FCSはレーザー照射された焦点にある蛍光分子標識の信号のゆらぎを周波数解析することで、対象の分子の拡散速度、運動様式、局所濃度、分子相互作用など様々な計測を行う[3]。細胞内の1mlあたり数百mgに及ぶ巨大分子混雑下では、分子は通常よりも大幅にゆっくりと拡散し[4]、通常のブラウン型ではない異常運動をする[5]。FCSは他の類似の方法と異なりこのような変則的な運動も検知し細胞内分子混雑に関する情報を提供してくれる。

 分子混雑下では、低速な分子拡散と相俟り反応動態が変化するため[6]、このような条件下での生化学経路の挙動をシミュレーションできる計算法の開発は極めて重要である[7]。本研究ではブラウン動力学法(図3)や格子気体法等の計算法の拡張を試みている。最終的にはFCSなどから得られたデータを元に、MSIが開発してきたAlpha 経路の非空間的モデルに空間的要素を導入し、細胞内空間の特性が信号伝達経路の動力学的性質にどんな役割を果たしているか研究していきたい。

[E-Cell Project]
 本研究にはここまで述べた生物学的な側面のほかに計算科学的な側面もある。私はこれまで細胞内で起きる現象論の計算機上での包括的な再現に向けた計算手法とソフトウエアを研究してきた。1996年に慶應大学SFC(湘南藤沢キャンパス)で冨田勝教授と共に発足させたE-Cell Projectのため、私は計算細胞生物学を主な想定応用対象とする汎用のモデル化、シミュレーション、解析基盤E-Cell Systemの開発を率いてきた。

 複合体形成などの非常に短い時間から細胞周期のような長い時間まで、また化学反応から分子の拡散、輸送運動、細胞骨格の構造変化まで、細胞は我々が知っているうちでも幅広い時間、空間スケール、多様な現象論が関わる最も複雑な系の筆頭に挙げられよう[8]。E-Cell Systemは、離散事象、エルミート補間、そしてオブジェクト指向という三つの「世界観」を複合することで、どんな時間駆動型の計算手法も任意に組み合わせ細胞などの混成的な系を効率よくモデル化、シミュレーションできる[9]。

 しかし、最新のE-Cell System version 3でもできないことが二つ残っている[10]。一つは、空間的な要素を扱うこと、もう一つは細胞分裂のときに起きるような系の動的な構造変化を扱うことである。空間的なシミュレーション手法を研究するには、まず細胞内の空間やそこでの分子の運動の特性を知る必要がある。酵母の信号伝達経路はこの種の研究の理想的対象で、また上述のようにシミュレーションの応用による成果も期待できる。第二の動的な構造変化の一側面として、タンパク複合体の関与がある。従来は可能な反応経路を全て列挙する静的なモデル化法が主流であったが、信号伝達系のように複雑な複合体が関与する場合この方法では組合せの数が爆発し困難に直面する。MSIのLarryLok博士は経路を動的に生成するMoleculizerシミュレータを開発し問題の解決を提案した[11]。この手法のE-Cellなどのシミュレータへの実装が始まっている。

[最後に]
 本年度からは学際的フェローシップの募集がはじまり、私のような計算機科学者はじめ、物理、数学、工学分野出身者がHFSPフェローとして採用されることが増えていくだろう。私が計算機を使った生物学研究をはじめた約10年前には計算生物学分野が十分認知されていたとはいえず、主流の生物学者の理解を得る困難や、逆に計算が実験を完全に置換するかのような誤解と戦う必要があった。どの分野でも新しい方法論の確立認知にはやはり10 年を単位とした時間が必要なのだろう。HFSP学際的フェローシップの募集開始にも象徴されるように、計算科学含め生物学への多様なアプローチの有効性が認知されつつあることは大変喜ばしい。ノーベル賞受賞者会議やHFSP受賞者会議のような有意義な機会への招待、欧米での受賞者への評価など、HFSPの価値を直接感じられる機会は数多い。私の研究が本フェローシップを受賞できたことは大変栄誉であると受けとめている。

[謝辞]
 図1および2は、MSIのKirsten BenjaminおよびRoger Brentから提供いただいたものを著者が改変した。CGECは米国立衛生研究所(NIH)の国立ヒトゲノム研究所(NHGRI)によりCenter of Excellence in Genomic Sciencesに指定され、サポートを受けている。E-Cell Projectに関連する研究は科学技術振興事業団戦略的創造研究推進事業、文科省細胞・生体機能シミュレーションプロジェクトのサポートを受けた。

図1 出芽酵母はフェロモンを感知して接合を開始する


図2 Alpha経路はα型接合フェロモンを検知し、接合に関与する経路を活性化する


図3 細胞内信号分子が拡散により受容体から遺伝子発現系まで到達する様子の予備的なブラウン動力学計算実験


【参考文献】
[01]http://nobelprize.org/medicine/laureates/2002/
[02]Dohlman HG, Thorner JW, Annu Rev Biochem. 2001; 70:703-54.
[03]Berland KM, et al., Biophys. J. 1995; 68:694-701.
[04]Elowitz MB et al., J Bacteriol., 1999; 181:197-203.
[05]Weiss M et al., Biophys J, 2004; 87:3518-24.
[06]Hall D, Minton AP, Biochim. Biophys. Acta. 2003; 1649:127-3.
[07]Takahashi K et al., FEBS Lett., 2005; 579:1783-8.
[08]Takahashi K et al., IEEE Intell. Syst., 2002; 17:64-71.
[09]Takahashi K et al., Bioinformatics, 2004; 20:538-546.
[10]Takahashi K, PhD thesis, Keio University, 2004.
[11]Lok L, Brent R, Nat. Biotechnol., 2005; 23:131-6.